「春の花は散り」

大陸の北方に位置する皇都ルルノイエの夜は、晩春となっても冷え込むが、その晩は一段と肌寒かった。
回廊の窓硝子越しに中庭を見ると、細かい雨が静かに降り注いでいた。ついこの間まで盛りを誇っていた花が、その薄紅の花弁が手入れの行き届いた芝の上に散らばって、点々と色を落としているのが、ジルの目には寂しい光景に映った。
ジルはアガレス王と晩餐を共にして、居室に帰る途中だった。
表向きは父王とその皇女という二人だが、たまに顔をあわせても、ぎこちなさの消えない会話は長くは続かず、すぐにどちらからともなく押し黙ってしまう。しかしそれでも、皇王はジルを完全に手放そうとはせず、時折側に召しては、年頃になるにつれて妃の面差しを濃くする少女を、複雑な眼差しで見つめるのだった。
ジルにしても、そんな王に対してどのような態度で接すればいいか、分かっている訳ではなかった。
回廊の途中で立ち止まり、憂鬱さを含んだ吐息を漏らして中庭を見つめたジルは、怪訝そうにする侍女を先に帰らせることにした。すぐ側の扉に手を掛け、そっと押し開く。ひんやりと湿気を含んだ風と同時に、ひそやかな雨音も、その隙間から流れ込んできた。
ジルはほっそりとした身体を扉の間に滑り込ませ、中庭へと入り込んだ。
すぐに柔らかな雨が、ドレスからむきだしの肩の上に降り注ぐ。が、むしろジルはほっとした気分になり、気の詰まる父との時間を流してしまおうと、軽く伸びをして息を深く吸い込んだ。
それでも、ひとつだけ忘れられない話があった。
アガレスが顔をしかめて語ったところによると、兄のルカが、また戦場に赴くのだという。
現在、皇王は敵対するジョウストン都市同盟との休戦協定を進めている。その妨げとなるような大きな戦闘は避けたいところなのだが、ルカは聞く耳を持たず、準備を進めているのだ。
もはや兄を止められる者はいないと知っていても、ジルはルカが戦の中へ飛び込んでいくのを止めさせたかった。
「そんなところで何をしている」
突然、回廊の方から険のある声が飛んだ。ジルはそれが誰の声か充分知り尽くしていたが、わざと顔を背けたまま応えた。
「こうしていると、気分が良いんです、兄様」
「ふん、馬鹿な真似をする。いいからこちらへ来い」
夜半に、ジルの居室に近いこの場所に兄のルカがいる不審を、ジルは感じていなかった。既に苛ついている兄に逆らわず、大人しくその側へと戻る。
体格の良いルカをジルが見上げる形で、兄と妹は回廊の端で向かい合った。
ジルの漆黒の髪が雨に濡れているのを不機嫌そうに睨んだルカは、おもむろに妹の細い手首を掴んで歩き出した。
「どこへ行くんです」
「黙ってついて来い」
吐き捨てるように言ったルカに半ば引きずられるようにしながら、実はジルは兄の来訪の目的を知っていた。
ルカはジルを伴って、自分の居室へと戻ってきた。酒の類は既に用意されていて、彼ら二人の他に人の姿は見当たらなかった。
ルカは先に椅子に腰を落とし、ジルに向かって酒瓶を顎でしゃくった。
「酌をしろ」
「……はい」
命じられたとおりに、ジルは栓の抜かれた瓶から、深紅の液体をルカの持つ杯に注ぎ入れた。ルカは黙って妹の仕草を見つめていたが、なみなみと注がれた酒を一気に煽り飲むと、再び酌を命じた。
ルカの広い私室の暖炉には火が入っておらず、外と同じぐらい冷え込んでいた。灯かりの数も極端に少なく、円卓の上に一台だけ乗った燭台の頼りない炎が揺れ動いて、沈黙する二人の顔を闇の中から照らし出している。
ジルは先刻雨に打たれたせいで身体の熱が取られて震えていたが、ルカはそんな様子に構う風もなく、続けて何度も酒を注がせた。
やがて、ルカはやっと杯を置き、傍らに立つ妹の顔を見た。
「俺は明後日、ルルノイエを発つ」
「知っています」
「老いぼれから聞いたか」
肯定も否定もせず、沈黙する妹を眺め、ルカは意地の悪い笑みを浮かべた。
「いつものように、止めようとはしないのか。俺は戦場に戻れば、這いつくばる豚どもを掃除しようと、この剣を振るうのだぞ」
ルカは常に腰に下げている長剣を軽く叩いた。沈痛な表情で兄の剣を見つめ、ジルは首を振った。
「兄様……。わたしは、兄様の手が無用に血で染まっていくのが嫌です。でも、何度そう申し上げても、聞き入れて下さらないではないですか」
「お前の言葉に聞く価値などない」
そう言うと、ルカはジルの腕を掴み、自分の方へと強く引き寄せた。
バランスを崩してよろめいたジルの顔に、酒臭いルカの息がかかった。
「お前は可愛い妹だ。だが、そのよく動く舌は無用だ。せいぜい着飾って、大人しくあの老いぼれに可愛がられているがいい」
言い放つルカの顔を、ジルは正面から見つめた。きっかけさえあればすぐに荒れ狂い、全てを焼き尽くす炎を宿す兄の瞳には、ジルの顔が映っている。……だが、ルカはジルを見てはいない。ジルがその面影を濃く受け継いだという、女性の影を見ているだけなのだった。
ルカは、出撃の前になると、よくこうしてジルに酒の相手をさせた。そして、ジルの顔を見ては、過去の悲劇の痕を探し、自らの狂気に終わりはないということを確認していることを、ジルは知っていた。
ジルの言葉は、全てルカには届かなかった。それでも、ジルは言い募らずにはいられない。ジルにとって、たとえ父は違っても、肉親はこの兄一人だけだった。
「お願いですから、今の時期に、同盟軍との間に余計な波風を立てないで下さい。このまま協定が結ばれれば、戦は終わるかもしれないのに……」
「賢しい口を利くな!」
荒々しく言いかけたルカは、何かを思いついたかのように、まじまじとジルを眺め直した。酔いの回ったその視線に悪い予感を覚えて、ジルは無意識のうちにあとずさった。
が、一呼吸早く、ルカによって手首を掴まれ、ジルはそれ以上後ろに下がることができなくなってしまった。
「そうだな……。たまには、お前の言うことを聞いてやってもいい」
「……」
ルカは冷えた笑みを口元に浮かべている。
「それには交換条件が必要だ」
「……何ですか」
兄の口車に乗るべきでないと知っていても、ジルは応えを返していた。
ルカは、ジルの気性を知り尽くしている。どうあがいても、ジルは兄に逆らうことができない。
ルカは不穏な笑みを見せたまま、妹の身体を引き寄せ、ジルの柔らかい唇に自分のそれを重ね合わせた。
驚いてもがくジルの身体をがっしりと抱きこんで離さず、充分に時間をかけて行為を続ける。
「……条件を呑むか、ジル」
やっと唇を離し、囁きかけた兄を力を込めて睨みつけ、ジルはその頬を打った。
打たれた頬をさすることもせず、ルカは面白そうに妹を眺めた。
「その気の強さ、誰に似たか……。あの老いぼれでないことは確かだが」
「馬鹿な真似は止めてください、兄様」
精一杯、声の震えを悟られまいとしたが、成功したとは言えなかった。ルカはジルの怯えを敏感に悟り、より楽しげになっている。
いきなり衝撃がきた。ジルの視界がゆっくりと暗転し、最後に残ったのは腹部の鈍い痛みだった。
剣の柄で鳩尾を打たれたのだと気付いたのは、薄れゆく意識の中で、ルカが軽々とジルの身体を抱き上げたときのことだった。
寝台の上に下ろされたのが、身体をゆっくり包んで沈み込む寝具の感触で分かっていた。
だが、意識はうっすらと残っていても、身体はぐったりとして言うことを聞かない。
兄の意図がはっきりと分かっているのに、逃げ出せずにいるのがもどかしいのに、どうすることもできなかった。
ルカの気配はすぐ側にある。ジルは雨に濡れて冷えた肩に、熱を含んだ手が当たり、それが兄の手と知ると、絶望に泣きたくなった。
兄の手はしばらく肩のあたりを撫でていたが、一旦離れた。安堵する暇もなく、胸元のドレスに手が掛かったかと思う間もなく、力任せに一気に引き裂かれた。
ひんやりとした夜気が、むきだしにされた胸元を漂った。躊躇うことなく、ルカは妹の深紅の衣装の胸のあたりを開ききったようだ。自分の胸の山が兄の目の前に晒されていると分かっていても、気絶させられたジルには、胸を腕で覆うこともできない。
兄の身体がのしかかる重みが伝わり、再び唇が塞がれた。口の間から、先刻の酒の味がする。呼吸を塞がれた苦しさに、ジルは顔を必死に振り、そこで自分の意識が戻りつつあることを自覚した。
「い…や……やめて、兄様……」
掠れた声で、やっと兄に懇願する。 胸をまさぐっていた手が一瞬止まり、ルカは低い声で呟いた。
「お前が母上に宿った時、与えた苦しみを返しているだけだ」
「いや……」
鳩尾の痛みで、上手く声の出ないジルは、その言葉だけを繰り返した。
ルカの身体の重みが離れたことに気付き、涙でにじんだ目で、ジルは兄の姿を追った。ルカは、寝台の横に置かれた剣を手に取り、鞘から抜き取って、その切っ先をジルの心臓の真上に向けた。
「母上と同じ声、同じ姿。老いぼれが認めるように、お前は母上に瓜二つだ、ジル。……あの時の母上と同じ苦しみを味わい、そして死ぬか?」
「兄様……」
常の激情からは想像できないほど淡々と、ルカは乾いた声で続けた。
「いずれ、俺はこの国を食い尽くす。それを目の当たりにする前に、母上の所へ、送ってやろうか……」
虚ろになりそうな意識を必死に引き戻して、ジルはルカを寝台から見つめた。
「わたしを殺すことで、兄様が狂わずに済むのであれば、一思いに突き殺して、兄様……」
ルカが目を見開くのを、ジルは涙の向こうに見た気がした。
「これ以上、苦しみを背負わないで……」
ひゅんっ、と振り上げられた剣が間違いなく自分の心臓を狙っていると思い、ジルは目を閉じた。
しかし、衝撃がきたのはジルが寝かされた羽根枕だった。寝台が上下に揺れ、ジルが目を開けると、裂かれた枕から飛び散った羽毛が、ふわふわと宙を舞って寝台に散らばっていったのである。
兄様、と呼びかけようとしたジルの唇を、ルカは荒々しい口付けで塞いだ。それも一瞬のことで、炎の燃えさかるような目でジルをねめつけると、枕に刺した剣を抜き、ルカは大股に歩いて部屋から出て行ってしまった。
ルカが部屋を出て行くのを、呆然と見送ったジルは、かなり時間がたってから、のろのろと身体を起こした。鳩尾の鈍痛以外は、特に怪我はない。
大きく引き裂かれた赤いドレスの胸元を掻き合わせて、ジルは泣き笑いに近い表情を浮かべた。
引き裂かれたドレスの切れはしが白い寝台のあちこちに散り、その様は、先刻見た中庭の花びらのようだった。
これほどの惨状を、どう侍女に説明すればいいのだろう?
重い闇に包まれた寝台の上で、ジルは俯き、涙をドレスの上に落としながら、意識のどこかで冷静に、強くなった雨の音を聞きつけていた。
・・・THE END・・・
・・・救いのない話でごめんなさい・・・。
でも、安易に救われるタマではないとおもうので、ルカ様は・・・。
散々なのはジルですが・・・。交換条件持ち出したって、殺しを止める気なんて、ルカ様にはさらさらないし・・・・・・。
ああもう、どうしたって言い訳のできない話だ。